吉里吉里善兵衛歴代の墓地[町指定文化財]

きりきりぜんべいれきだいのぼち

みちのくの紀ノ国屋文左エ門と呼ばれた三陸大槌の豪商「吉里吉里善兵衛」

 JR吉里吉里駅前の小公園から東に約50m、散策路の先に「吉里吉里善兵衛」歴代の墓地があります。吉里吉里の街並みと吉里吉里海岸、船越湾を見下ろす小高い丘にある歴代の墓地は町の史跡に指定され、江戸の昔に豪商として栄えた往時の栄耀栄華を偲ばせます。
 明治の頃まではこの墓地は大理石の石畳で敷き詰められていたといわれています。伝説そして民話に語り継がれてきた「吉里吉里善兵衛」は「みちのくの紀ノ国屋文左エ門」とも称され、いろは48艘の千石船に帆を上げて、唐天竺(からてんじく)を股にかけた海の豪商として持てはやされました。
 栄華を誇った「吉里吉里善兵衛」の邸宅は2万坪にも及ぶ土地の中に豪奢(ごうしゃ)に建てられ、その周りに使用人等が住む長屋が建っていたといわれます。
 八代まで「善兵衛」と名乗り、南部藩の財政を支えた海産物商で、苗字の「前川」は現在に至るまで継承されています。
 その先祖は相模の前川村の出で、北条氏の小田原の家臣で、家領150貫の家柄でした。
(参考文献:2003年3月3日発行「大槌町観光ボランティアガイドの手引き」 以下同様)

[1] 初代甚右ヱ門 富久(とみひさ)

初代富久の父は上野助富英といい、伊豆下田城主で、1590年豊臣秀吉の小田原征伐で落城を知り、回船で奥州気仙浦に逃れました。富英没後、吉里吉里浦に移り、自身の出である前川村の「前川」を名乗りました。
初代富久は当時の回船問屋から交易の権利をゆずり受け、三陸漁場を差配する力を持つようになりました。(1677年没)

[2] 2代善兵衛 富永(とみなが)

前川家を不動のものに興(おこ)した祖先といわれます。1706年南部藩に930両も貸していたほどの貿易商で、そこから得た利益を全部南部藩に返納したことから、交易船200石分の御免石証文を貰い、名字帯刀も許されました。(1709年没、72歳)
 
※名字帯刀 ~名字を名乗り、刀を所持携行できる武士身分の特権。例外で功績・善行を認められた農民・町人にも与えられました。

[3] 3代善兵衛 助友(すけとも)①

助友は64石余の地方給人、いわゆる代官所下の地方侍でしたが、1707年父富永の隠居とともに家業を継ぎました。
南部33代利視公の海岸巡視(視察)の際には、出店のあった大槌浦(安渡)宅で接待したり、箱崎山で狩りを行った時も猟師204人や列卒(せこ)3200人の弁当や御召船(おめしせん)も出しています。

[4] 3代善兵衛 助友(すけとも)②

南部藩はこの助友の代にも金銭を用立てており、証文18枚で1700両もあったとのことですが、これも全部藩に返納して魚類海藻積出200石の船税免除を永代に許されました。俗に「御免石船」といいます。
「御免石船」とは1年1回に限り200石の税を免除するという特権を持つ船のことで、前川家では「明神丸」という800~1000石も積む商船での出航を許可されていました。
(1746年12月没、71歳)
 
※写真は助友が奉納した「明神神輿」(右側)

[5] 4代善兵衛 富昌(とみまさ)①

野田の中野甚右ヱ門という給人の家から養子となり、1738年助友の後を継ぎ善兵衛を襲名しました。
1744年藩船宮古丸(700石)と虎丸(250石)の造船を命じられ、宮古方面から吉里吉里まで良材を運び、1745年6月に2艘を完成させています。
また、1741~1750年、宮古、大槌両代官所の漁師たちから納められる〆粕の差配役を命ぜられ、7ケ年分の勘定で15900両の藩費納入を手伝い、尾去沢銅山の経営も盛岡商人とともに仰せつかっています。

[6] 4代善兵衛 富昌(とみまさ)②

1749年には、南部藩は江戸屋敷の財政支えのため、藩米1万俵引き当てに3500両の上納を命じています。
さらに、1753年、幕府からの日光山の修復を命ぜられた南部藩から7000両を都合され納めています。
1755年の宝暦の大飢饉には、大槌通だけでも1094人の餓死者が出る中、飢民救済のため私蔵を開いて粥を炊き施しました。その数、延べ25000人余に及びました。
(1763年7月没、73歳)

[7] 5代善兵衛 富能(とみよし)①

1761年4代富昌から家督を譲り受けたのが富能です。
江戸幕府から南部藩が日光五本坊の修復を命ぜられ、費用7万両のうち、藩米3万俵を抵当に5000両の調達を請け負ったのが富能でした。
豪商善兵衛を物語るものとして『吉原で海苔の羽織』というエピソードがありますが、その当事者が富能と言われています。

[8] 5代善兵衛 富能(とみよし)②

7000両の調達以降も度重なる御用金要請により、それまで7000両を納める立場の善兵衛は、逆に7000両の借金を抱えるまでになってしまいました。
このころから富能は、盛岡の勘定所へ持ち船や店舗の売却、御用商人の御役御免の請願書を何度か提出しています。

[9] 5代善兵衛 富能(とみよし)③

御用商人を辞め、起死回生を図ろうとした富能は、それまでの関東俵物(交易)から長崎俵物(貿易)に眼を付け、取り組み始めますが1769年には700両もの不渡りに遭遇するなど、商売は下降の一途をたどってしまいました。
(1801年11月没、79歳)
 
※富能は後に東梅社(御社地)を開く菊池祖睛などともに見生山大念寺の寺子屋で学びました。

[10] 6代善兵衛 富長(とみなが)以降

5代富能は子宝に恵まれず、盛岡の赤沢家から養子(富長)を迎えますが、過去の栄光は蘇らず、衰退の一途をたどります。
(富永 1842年6月没、71歳)
6代(富永)、7代(富命)、8代(富壽)と漁業権を処分しながら、僅かに武士としての面目を保っていきましたが、明治元年はすぐ目の前でした。
広く三陸海岸で名を馳せ、自らの大型廻船で三都に関東俵物、長崎俵物を扱った大実業家は、郷土の偉人として長く歴代の業績をたたえられています。

前川稲荷神社(まえかわいなりじんじゃ)

前川善兵衛が造営した社で、全国各地から集められた御神仏が祀られています。
御堂の中には江戸時代からの社が2つ入っており、その中には七つの神様(稲荷様・水天宮様・弁財天様・龍神様・山神様・明神様・八幡様)が祀られています。
東日本大震災の津波にさらされましたが、幸い御神仏は流されず残りました。

所在地 岩手県上閉伊郡大槌町吉里吉里2丁目2
アクセス 三陸道大槌ICより車で10分程度 三陸鉄道吉里吉里駅より徒歩5分
駐車場 吉里吉里駅前駐車場を利用
お問い合わせ 0193-42-5121 大槌町観光交流協会
情報更新日 2022.9.13 ※掲載内容は、状況によって更新されます。