大神楽(6団体)

だいかぐら

江戸時代より盛岡の芸能集団「七軒丁」からの芸態を受け継ぐ

伊勢太神楽の系統を汲む太神楽は、現在、城内・中須賀・松の下・安渡・吉里吉里・浪板の6団体があります。これら町内の大神楽に共通して言えることは、一般的に「太」がすべて「大」となっていることです。これはもともと太々神楽の代用の意味で、代神楽といわれたものがやがて大神楽になったと云われています。

演目については、ほとんど同様のものが演じられており、基本的には「通り」「散らし」「獅子矢車」「四本固め」「甚句」等があり、時には「四本固め」が「二本固め」として踊られることもあります。大槌町には県内でも古い部類に入る永禄6年(1563年)の獅子頭(町有形文化財)がありましたが、東日本大震災で流失してしまいました。

安渡大神楽(あんどだいかぐら)
*伝承地:安渡地区

藩政時代に大槌代官の命により金崎市兵衛、宮澤又助の両名が南部藩お抱え芸能集団「盛岡の七軒丁」から習得し、町民に伝えたものであると言われています。明治時代、大漁豊作の年のみ祭礼開催するようになり一時衰退した時期もありましたが、先人の強い熱意により今日まで伝承されてきました。主に安渡地区の住民で組織されています。
また、当組の獅子は「雄」と言われ、舞い方も雄々しく舞います。
大震災の津波で大半が流されたが、関係者の努力で活動が再開しました。

吉里吉里大神楽(きりきりだいかぐら)
[町指定無形民俗文化財]
*伝承地:吉里吉里川原地区(現一丁目地区)

江戸時代前期、二代目前川善兵衛富永の三男善右衛門からお抱え業者で「鍛冶屋」三浦家(川原通り)に獅子頭が寄贈され、伝承が始まったものと口伝されています。踊りの由来は定かではなく、近隣地区などとの交流により伝授されたものと推測されます。また吉里吉里は、豪商前川善兵衛の本拠地であるため江戸との交流が盛んであった影響なのか獅子頭の風貌は江戸風です。
悪魔退散・天下泰平・商売繁盛を切願する舞で、吉里吉里天照御祖神社の丁印として現在に至ります。

城内大神楽(じょうないだいかぐら)
[町指定無形民俗文化財]
*伝承地:城内(上町)

寛永時代、小鎚神社が現在地に遷宮鎮座した頃、山伏修験者が伊勢流の太神楽を代神楽として陸中閉伊の七明神に持ち込んだのが始まりという説や、大槌代官のすすめで七軒丁(盛岡仙北町付近)から習ったとも伝えられる小鎚神社奉納の大神楽です。演目などは町内他の大神楽とほぼ同じですが、雌の獅子といわれ、静かに雅やかに舞うのが特徴です。
小鎚神社祭礼の神輿渡御に随行して歩き、門打ちを行います。
大震災で被災も支援により屋台や装束など復活させ現在に至ります。

中須賀大神楽(なかすかだいかぐら)
[町指定無形民俗文化財]
*伝承地:中須賀(本町)

起源は定かではありませんが、江戸時代末期と考えられ明治前期になって組織化されました。伝承地の中須賀地区は、小鎚神社里宮に隣接しており、大震災の津波により町内町方地域は家屋も全壊し、獅子頭をはじめすべての用具・装束・山車など流失しました。伝承者のほとんどは町内外の仮設住宅などに転居し伝承活動の継続が危惧されましたが、伝統芸能復興支援とメンバーの熱意により活発な伝承活動が再開されています。
獅子頭に牙がなく雌であると言われています。

浪板大神楽(なみいただいかぐら)
*伝承地:浪板地区

起源は天明の頃、明神丸造船の際に船大工から伝授されたという説と、享和年間に幕府より迫害を受けたキリシタン宣教師が、塩煮鍋作りの技術を教える傍ら大神楽を伝授したと口伝されていますが、史実的根拠は明らかではありません。前川文書に、江戸時代前期に二代目前川善兵衛富永の三男善右衛門が、獅子頭を浪板太神楽に寄進したことや、文化7年に七代目前川善兵衛富長が、新造船吉祥丸の船おろしに浪板大神楽の舞を披露し祝ったと書かれています。

松の下大神楽(まつのしただいかぐら)
*向川原・松の下(末広町)

盛岡七軒丁の芸人に由来するという言伝えが残っています。江戸期・盛岡七軒丁の芸人が、南部藩主より下賜された獅子頭三頭のうち一頭(光雲作・命名鶴千代)をもって大槌向川原に移住、大槌の代官がその者を召し抱えたとされちますが、文献・記録は残っていません。
昭和に入り、向川原大神楽の継承者減少のために近隣の「松の下」の有志により引継がれ、昭和37年以降、松の下大神楽と改名されました。
獅子頭・用具は大震災で被災しましたが、支援により再開しました。

《郷土芸能マメ知識》
◆盛岡の芸能集団「七軒丁」について・・・・・・。(1)

藩政時代、当時の大槌代官の命により金崎市兵衛(鍛冶職)、宮澤又助が盛岡の七軒丁より舞を習得して町民に伝えたという大槌町の大神楽の起源説のひとつである盛岡の芸能集団「七軒丁」とは・・・・・・。
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文政年間に南部利敬(としたか)藩主が、南部藩初期より仕えていた御駒太夫等7人を江戸に学ばせて「七軒丁」という芸能集団を作ったとされます。御駒太夫は芸能集団であると同時に芸能を取り仕切る役割を担っていたようです。↓

《郷土芸能マメ知識》
◆盛岡の芸能集団「七軒丁」について・・・・・・。(2)

七軒丁の御駒太夫は、盛岡市戦仙北町を根拠地に藩領内各地(下北半島から釜石・北上まで)に出かけ太神楽をはじめ萬歳や曲芸など多彩な芸を各地に伝承しました。
それらの諸芸を教えられた人達が地域に定着させ、氏神の祭礼や正月に祈祷の舞を奉納してきました。
大槌町の大神楽は、ほとんど七軒丁の芸を継承しており大槌・小槌・吉里吉里・浪板地区、それぞれ氏神への奉納と地区全域の祈祷を司ってきました。

★ 三陸 大槌町 郷土芸能 かがり火の舞 ★(令和5年も開催!)

年に一度、町中が熱気に包まれ盛り上がる大槌まつり。
その前夜祭として神社で舞を奉納する「宵宮(よいみや)」の雰囲気を、大槌町を訪れた観光客の皆さんに楽しんでいただく企画、三陸大槌町「郷土芸能かがり火の舞」。を令和5年も開催しします。
(下記「かがり火の舞」情報参照)
 
かがり火に照らされ、幻想的な雰囲気の中で勇壮に舞い踊る郷土芸能演舞を、荘厳な夜の小鎚神社でお楽しみいただけます。
町民の皆さんも観賞できますので、ぜひお越しください。

お問い合わせ 0913-42-5121 大槌町観光交流協会
引用文献 2015年1月31日発行「大槌の郷土芸能」(大槌町文化遺産活性化実行委員会)
写真協力 大槌町ほか
情報更新日 2023.5.10 ※掲載内容は、状況によって更新されます。
「かがり火の舞」情報 https://otsuchi-ta.com/event-info/?p=6207